この状況を乗り越えるためには、綺麗な水滴が水槽に流れ込むことが重要で、美しいひとが育つことが大切なのです。どのようなひとを育てれば、水槽の水を綺麗にできるかが問題ですが、そのためには、哲学の永遠の命題である「私はだれ?」を実践し自分を知らねばなりません。そして、自分を知るためには、自分以外にひとがいるということを認識する能力が大変重要となります。
この夏、娘が生まれたばかりと5歳の2人の孫をつれて帰省してきました。2人の孫と遊ぶと実に楽しく、1日があっという間に過ぎますが、彼らの行動から実にいろいろなことを学びます。生まれたばかりの方の孫は、お腹がすけば泣いて母親を呼びお腹を満たし、おむつが不快になればまた泣きます。恐らく、彼女にとって、世界の中心は自分であって自分の意識のなかに自分しか存在していないと思えます。彼女は、自分の周囲の出来事を「熱い、痛い---」と動物に基本的に備わっている「感覚」(すなわち五感)だけで感じているようです。といっても、彼女は、私に向かって「にこっ」と笑ってくれるので、私だけに好意を持って認識してくれているのかと嬉しくなりますが、動物学者にいわせれば、ひとの赤ん坊は、自分に関心を向けてもらうために笑い顔を作るのだということです。ほかの動物の赤ん坊が「にこっ」と笑うことはありません。
一方、5歳になった孫は、最近、知らないことを知りたいという要求が大変強くなっていて、1日中「どうして?どうして?」と質問攻めにします。そして、教わったことを吸い取り紙にしみ込むインクのように吸収し、多くの知識を身につけていく様子には、目を細めずにはおられません。彼は時々、私が思いもつかないような話しを始めるのですが、よく聞いてみると、これまでに得た知識を組み立てて、自分の知らないことを想像して話していることが判ります。勿論、彼自身には、現実と空想の区別がついていません。このようにして、自分の周りの事象を感ずる力は、「知性」と呼ばれ、私は、彼が知性を備えた若者に成長してくれることを期待しています。
さらに、自分の周りに自分とは違うひとがたくさんいて、友達と楽しく遊べたときは、友達も楽しいけれど、意地悪をされた友達は、怒ったり、悲しんだりするということに気付き始めているようです。このことは、彼が、他のひとにも「悲しいとか嬉しい」という感情があることを「こころ」で理解するようになったことを意味します。岡先生は、この認知の仕方を「情緒」と呼ばれました。「情緒」による認知は、「感覚」で認知することと違って、姿や形があるものではなく自分の「こころ」の中に沸き出すように生まれるものです。大自然の美しさに言葉を失って感動するということも同じです。ひとがけものから人間になるというのは、とりもなおさず、この他人の感情や自然の美しさが判るようになるということです。彼は、少しずつひとに近づいているということなのでしょう。
このように人には、「感覚」、「知性」、そして「情緒」という三つの認知の仕方が備わっています。これらの知覚のなかで一番働きやすいのは、「感覚」であり、次に「知性」、そして、最も働きにくいのは「情緒」です。従って、ひとは、努力し自分を磨かないと易きに走り「感覚」だけで物事を認識するようになります。そうなると、五感で認知できる形あるものの存在は、判るけれども、他人の感情や大自然の美しさを「こころ」で理解できなくなり、目に見え、手に触れる物質だけに固執する物質主義になってしまいます。「知性」が働くためには、多くの知識と経験を身につける必要があり、教育が大きな役割を果たします。そして、「情緒」は、美しい水槽のなかでないと育むことはできません。いまの日本の水槽が濁ごり続けている最大の理由は、日本の社会が経済的価値観一辺倒でつくられており、ひとのひとたる由縁の「こころ」がないがしろにされているからではないでしょうか?日本が澄んだ国になるために、こころの精進をして、澄んだ水滴になろうではありませんか。
注1 岡潔:日本を代表する数学者。岡潔(1901〜1971)、多変数解析函数を研究し世界をリードした日本の数学者。元奈良女子大学名誉教授。理学博士。和歌山県伊都郡紀見村出身で粉河中学を経て第三高等学校、京都大学に学ぶ。湯川秀樹、朝永振一郎、広中平祐氏らに影響を与える。春風夏雨、毎日新聞社、昭和40年6月30日第1刷発行。
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